昭和46年07月14日 朝の御理解
御神訓 一、「食物はみな、人の命の為に天地乃神の造り与え給うものぞ。」
教祖様の食物に対する、見解ですね。屈託がなくて本当に大きいというか、深いというか、この食物はみな人の命の為にと。人間が食するもの、人間が食べられるという、ありとあらゆる食物。それはすべて天地の親神様が、人の命の為にお作り下さったんだという見解なんですね。ここだけ頂いても、金光教の信心が、どの様にすばらしい、云うならば世界中の人間氏子に広がっていけれる内容を持っておるかと云うことが分かります。いわゆる普遍性に富んでいるという訳ですね。
或国では、或宗教では、豚を食べてはならない。同じ国におりながら、或宗教は牛を絶対に食べない。そういう処もありますよね。どんなに考えてもおかしいですけども、それが、それこそ真面目に守られておる。牛なんかがこう道に出て参りますと、自動車が行きよっても自動車の方がよけなければならないと言われておる。牛はそんなに尊いものだという訳なんでしょうね。
そういう見方、教祖様はそれこそ、牛であろうが馬であろうが食されるもの、人間が食べて食べられるもの、それを食物とこう言われる、と見ておられる。しかもそれは人の命の為にとこう言うておられる。命の為に、神様が造り与え給うておられる。それは宗教には、何と申しますか、全てを愛すると云う心でしょうかね。生き物をいじめたり傷つけたりしたらいけないと。そういう様な心が、確かにこの宗教をしておりますと、自然備わって来るのですね。取分け仏教何かではそれこそ殺生をしない。
その成程殺したり傷つけたりするという事は、確かによい気持ちのものではない。けれども、教祖様は、食物は人の命のためにと仰るのですから、私どもは命の為にそれを有難く頂くという事に依ってそれは魚であろうが、お野菜であろうがそれが牛やら馬であろうがです、命の為になってくれる。これはちょっと話が違いますけれども、先日愛子が食堂で油虫が出て来ましたから、早く殺さにゃ殺さにゃと言うてからまぁ殺した。誰でも油虫を見ると、やっぱり殺そうごとなる様に、油虫て嫌なものですよね。
けれども同じ例えば殺すという事が、その憎たらしいから殺すというのとですね、可愛そうだけども殺すというのとね、可愛そうだから殺すというのがある訳です。それで私が申しました。私も風呂場に、風呂に入っとりましたら、丁度油虫が風呂場にやって来ましたから、。丁度シャワーをかかっとったから、シャワーの熱湯をしゃとかけた。すぐ一遍に参って仕舞う。けどもその殺す時にですね、私が思うのですけれども。
もうこんなに人から嫌われるもの、この次に生まれ変わって来る時には、もうちょっとましなものに生まれ変わって来るようにと言う思いで殺すと言うて話した事でした。ですから、思いが大変違って来るですね同じ殺すでも。憎たらしいから殺すというのは、これが信心の心が何かこう崩れる様な気が致しますね。神心といった様なな心が。ところが神心をもって殺す親切をもって殺す。この世の中にもう本当に、油虫のごとあるとまあ嫌な人の場合を、まぁ油虫のごとある奴と言います様に油虫は嫌われる。
これは食物ではないですけれどね。だから、魚でもそうです。食物の為に殺すのである。人の命の為に殺すのである。憎たらしいから殺すのじゃない。そこんところをですね、教祖様は、食物について、その様な見解を持っておられる。それはどういう事かというとですね、その前の御神訓に「わが身はわが身ならず。」とこう言ってられますね。「わが身はわが身ならず。
神と皇上との身と思い知れよ」と教えてありますが、その所謂私共の命と云うものは、私の命ではなくて実を云うたら本当いうたら、神様の命なのだ。ここに至って参りますとです。その命を護ってくれるもの、その命を守るものそれは食物である。それもなら私共の命ではなくて、神様の御命であり神様の御体である。そういう高い理念に立って、私共の命体というものを思う時にです愈々そこに、如何に大事に取り扱わなければならないか、大事にしなければならないかと云うことがわかります。
自分の命を大事にすると云うのではない。神様の命を大事にする為にでも、やはり魚も頂かなきゃならん、お野菜も頂かなきゃならんのです。場合には、鳥を絞めたり殺したりしてでも頂くと言うこと。云うならば、神様に捧げることになる。だから、どんなにそれが生き物であろうがです。云うならば、神様に食べられると云うのですから有難いことである。いよいよ時候がこう暑うなって参りますと、食べ物がどうしてもお粗末になります。冷蔵庫に入れときゃよかと言うばっかりもいけん。
ですからその食物を頂くにあたりましてもです、本当に私が頂くのでなくてはなくて、神様が頂きなさるのだと、そういう、私は、頂き方。昨日もどうもこの頃は歯が悪いから、ご飯を柔らかくしてくれる。柔い物ばっかり頂いておる。どうも御飯がこう酸いごとある感じがする。これはお前、ちょっと酸いかごとあるじゃないか。それが御神飯を、昨日の御神飯ですけん、という訳。それでもまぁ、それこそ頂きました。けれどもそれが例えば、悪い食物が当たる。食当りがする。
これはやはり食物の、所謂頂き方というものが間違ってる。それは悪くもなっていない、又は当たる筈がないのに、頂き様が悪い為に命を害する体を害する。そういう頂き方は、神様に本気でお詫びをしなければならない。今日はあそこは、ちょっ余談ですけれども。昨日、十三日会が終りましてから、えらい勝手の方で、ざわざわしてます。どうしたかと思いよったら、ここが全部水洗便所になっていますからね。今度若先生の部屋が出来た為に、あちらの方へ、一回り大きなビニール管がいけてある。
それが継いでいけられたらしいんですけれども、まるきり素人さんがした様にですね、それが本当に継いでないなりに、泥がかぶせてあった訳です。それだからそこから詰まってしまって、一杯になってる。さぁそれから衛生車の車を呼んで、みんな汲み上げなきゃなりませんからね。マンホールに入りきらんまぁ大変みんな、それこそ臭くなって、身体にしまう位に色々何人かの方達が、一生懸命やっておりました。
けれども丁度、今日、十三日会が終ってからじゃったけんよかったなぁと。これが普通の人手がない時ならどんこん出来じゃったと。今日御祈念の時に、そのことをちょっと思わせて頂いてね、お礼を申させて頂きよったらね、神様からお詫びをするのじゃと頂きました。例えば信心させて頂いておる、おかげでもう本当に置いた物を取るように、何もかも万事万端全て御都合御繰り合わせを頂く。その御都合御繰り合わせを頂いておる。だから昨日もそういう御繰り合わせ頂いとると、私は思うた訳なんですね。
ちょうど昨日皆さんが人手が揃うておる時に、そう言う事になったと言う事はおかげじゃったとこう思った所、神様がお詫びをするのだと。そしてどうしてお詫びせんなんじゃろうかと思うて、色々思わせて頂いてから、まぁ思わせて貰うのですけれども。二十八年の水害の時に、畳が全部腐りましたよね。その腐った畳を全部教会の北側の板塀の所に立てかけてありました。それがもう誰もそれを片付けようともしない。もう腐って臭いがするようになっとるけれども、誰もとり片付けようともしない。
私が若い方達に、青年会なら青年会の方達に云えば、そらすぐするかも知れん。けどもこれは、私の流儀ですけれども、そこに嫌な事が起きたり、困った事が起きるということ、起こったという事はね、これはもう私の不調法として、神様に御詫びをするより他にはない、と私は思っておる。だから、お詫びが叶えば、そこが成就すると私は思うておる。これは信者が行き届かんとじゃない。ほんなこと、何日でも、ほうからかしてから、誰も知らん振りして誰んせん。
というて腹立てたりするとはなか。こちらの信心が、まだ不行届きだから、いつまっでん片付かんのだ。みんなが気が付かん。気がついとっても、気のつかん振りしとるのが、それを分からせたいのは私にである。だから私の信心不行届きをお詫びするより他にないと気付かせて頂いて、お詫びをさせて頂いたら、その翌日、通りがかりの人がですね。これは貰われんでしょうかと言うちから、言うて来た。はぁどうぞ、家も迷惑しとるから、持って行って頂くならと。
何か肥料かなんかになさるとだったらしい。もうすぐ大きな車を持ってから、みんな持って行って下さった。ですから昨日のそのことをだってそうなんだ。これだけの事が、いわば、大きな事業が行われておるですね。家が建ったり、それじゃいろんな地下工作、そういう風な事一切、神様のおかげの中になされておるのにです、そういう不調法な事になっておったということは、こちらの祈り不足であったという事、不行届きであったということをです。神様にお詫びするのじゃと。
今日、頂いて、その二十八年の時の、水害の畳のことを思い出した。成程、やはりお詫びじゃなぁとこう思うんです。さぁそこで、ほんなら、今日、この食物訓のところでです。食物訓ですね、食物はあぁして命の為に下さってあるのに、食べた為に胃がせいた、食べた為に腸が痛みよる。食べた為に腹痛を起こしとる。あの食べ物が悪かったじゃろうと云う前にです、これはやはり、お詫びをしなければならない事が分かりますね。あの職人が、ああいう不行届きの事をしとる。
しかもそれを、素人でばしある様にですね、それをそんな不完全な事をしとって、泥をかぶせてしもうとる。どうした誠意の無い事をするじゃろかと。例えば言う前に、やはりこれは私はお詫びすることであったと。それでも神様はまあ普通の日になったら、大変困るだろうと思うて、神様はわざわざ昨日、そういう人が集まっておる時に、又その事に本気で、そういう臭い仕事でもです。それを平気でやって下さる信者さんの居られる時に、それが分かったと言う事は有難いけれども。
だからその事は御礼を申し上げる事ではあると同時にです。根本の所はお詫びをすることであるという事が分かる。そこで、お互いの体がきついの、どうのとこう言うこともです、痛い痒いに至るまでです。これは、私はお詫びをするという事が本当だと云うことをわからなければいけません。お詫びが叶うたら早速あくる日は、見ず知らずの通りがかりの人が、こちらでは腐って困って、臭いのしよるごとあるとをです、向こうでは必要な人が通り掛かって、それを頂けんだろうかと言うて貰って。
みんな持って行って下さってしもうた様な、やはりおかげになるのです。いわば詫びれば許してやりたいのが親心なのですから。だからそれを体の上にも、一つ思うて見なければいけません。原因がああだ、こうだではなくて、その大元にはです。いわゆる食物はみな、人の命の為に、その命というのは、その前の御神訓頂きますと、「吾が身は吾が身ならず」とあります、吾が身は吾が身でないというのです。この命は吾が命の様であって吾が命ではないと云うことになってくる。
いわゆる神様の体だ、神様の命であるのですから、それをいわば預かっておる様な心持ちで、宝物でも預かっておる様な心持ちで、宝物の様に自分の体を大事にするという事がです、本当な事である。もしそれに傷付けたり痛ませたりするのならばです。それは私の不調法としてお詫びをしなければならんことが分かるでしょう。だから形だけのお詫びじゃなくて本当に、それがお詫びが叶うた時に、私は病気は癒えると思う。
そしてこれからはです、まぁ例えて云うならば、命の為に頂かなければならんものを、命を害する様な頂き方は致しませんと云う様な信心が、そこから出来てくると云う風に思うのです。食物はみな、人の命の為に、天地の神の造り与え給うものぞ。教祖の神様の、いわば、食物に対する見解のその広さ、その深さを、ここに感じさせて頂きます。そこで頂く方の側の、私どもとしては、只今申しました様な意味合に於て頂かなければならない。神様の御預かり物のこの命であり。
またはこの体であるとして、それを宝物のように大事にする。食べ過ぎるようなことや、飲み過ぎる様な事は、だから、慎まなければならん事が分かる。けれども、私どもが、迂闊にして、その御預かり物の命を害するようなことに結果に於て成るような場合がある。腹が痛んだり、不調法をして怪我をしたりする様なことがある。それこそ、私の不調法に依って、体に傷を付けた事になる。私の不行届きで、お腹がせいて居ることになる。お腹が傷んで居ることになる。
どうぞ良うなして下さい、どうぞようなして下さいでは、いわば神様には、通じんということが分かる、本当の意味に於いては。それの根本のところを分からせて頂いて、御礼じゃないぞ、お詫びぞとこう。例えば今日私が頂いた、その事と同じ事になる。お詫びをする心。そこに、そのお詫びを本当にお詫びとして、神様が受けて下さった時には、詫びれば許してやりたいのが親心と仰る親心が体の上に表れてくる。
いわゆる痒いのも治るであろう、痛いのも治るであろうというおかげになってくる。食物をそういう意味合でです、私共は頂かなければならんと思うのです。合掌して食物を頂く。そして食物を合掌する同時に、自分の体そのものも拝まなきゃならん。だからこの合掌は食物と自分とを拝むような気持ちがいるのじゃないでしょうかね。いや貴方の命に貴方のお体に、只今こういう食物が与えられ、いわば入って行く訳なんです。
御粗末御無礼のない様な頂き方を願わせて頂くと言う様な、いわば内容を持っての神様頂きますでなからなければならんと思うのです。食物はみな、人の命の為に天地の神の造り与え給うものぞと。ですから何を食うにも飲むにも、それが食物である限り、食べ物である限り、これは命の為に頂くのだと。同時に様々な宗教がありますが、金光様の御信心による、金光教という宗教はです、食物に対して。
そういう大きな広い見解を教祖様自身がお持ちになって居られたと。そして成程人間が頂く御教えだなといった様なものを、この御神訓から感じとらせて頂くことが出来ます。そして、私共の上にです例えば、食物があたったとか、いわば痛い痒いが起こった場合、これは願いもさることながら、その前にそこまでに至った事のお詫びを、心からさせて頂くということが必要であることを、今日の御神訓の中から、分からせて頂きます。
どうぞ。